会員の部屋! NO.17-2

岡本悦子先生 その2です。

あれやこれやで大学進学と同時に東京へ移住(お茶の水女子大学を勧めてくれたのは器械体操部の恩師です)。

しかし、ここでまた迷いが頭をもたげます。

佐世保ではクラシックバレエにしろ、器械体操にしろ、それぞれの「美」や「技術」の正解がなんとなく理解できたように思いましたが、東京で初めて見た「モダンダンス」(当時は)はちっとも良さがわからなかった。

困った・・・が始まりました。それで自分の知識や理解が足りないのだと本を読み、劇場や美術館(叔父が東京で売れない画家をしていました)巡りが始まり、舞踊以外の芸術にも親しむようになりました。

度々指導教官松本千代栄先生にお供して地方の講習会のお手伝いしながら学ぶぞ!と鼻息を荒くしたものの、先生の偉大さや教育的価値は理解しつつも…創作の面白さはまだまだ自分のものにはならず…苦手意識は拭えませんでした。

そして淑やかさに欠ける私が恐れ多くも無知を曝け出して恩師に疑問を投げかけたとき、ふっと呟かれた言葉が「啐琢の機」でした。「啐啄同時」は鳥の雛が卵から産まれ出ようと殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをすることを意味します。

有難いことに私は学生時代から卒業後にわたって度々先生から得難いチャンスをいただいていたにも関わらず、不器用なため応じることができず、期待を裏切り続けました。

まだかまだかと恩師をヤキモキさせ通しだったのでした。2022年9月102歳で逝かれて既に約3年が経ちますが、私は未だ空に向かって謝り続けています。

片岡康子先生や石黒節子先生も「しょうがない。もうあなたは自分の好きなようにおやりなさい」と見守ってくださいました。

結局大学院時代に同級生らと研究と実践に取り組むグループ「アンカット舎」を立ち上げてからが私の孵化の始まりでした。

朝から晩まで気の合う仲間たちと創作に耽り、中野のplanBや早稲田小劇場どらま館での自主公演をはじめ、人生最高の幸福感に酔いしれた院時代、それが私の基盤となっています。

もっとも孵化の後も私は相変わらず自分ペースでしか進むことができていません。いや進んでさえもいないような気がします。

そうやって「進みかけては転ける」「転けては別の何かが飛び込んできて奮起する」そういった紆余曲折を繰り返してきたように思います。

そうこうするうちにいつの間にか定年がすぐそこまで迫っていて驚いています。

どうしましょう。仕方がありません。それでもやはり私は私から逃れられません。安易に答えを見つけたくはありません。

「美とは何か」「真実とは何か」「人間とは何か」、ダンスや身体表現の創作を通してこういった問いに向き合うことが好きなのです。

現在はほとんど学生の創作の手伝いを通してではありますが、創作にはいつも新しい発見があってワクワクします。

どんなに苦労したところで納得できる答えが見えて来るとも限らないのですが、大変でも続けるしかありません。

そうしないと自分を生きることにならないのだろうなと思うようになりました。

空の上からは「ああ、もうしょうがない人ですね、おかもっさんは…」という声が聞こえてきそうですが。

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